第四回 シンガポールと日本から考える「国際化」

日本人にとって外国とは何だろうか。世界の東端に孤立する、温暖で実り豊かなこの列島に、小舟に身を任せ幸運にも辿りついたアジア人たちの、その遥か子孫であろうと思われる我ら。しかしその我々は、外国のことを「遠く彼方にあるもの」「用があれば出かけて行くけれど、用がなければ余りかかわりたくないもの」のように感じていないだろうか。ましてや外国籍の個人や企業が日本の山林を買い占めているとか、電車で乗り合わせた外国人の連中が何か場違いに大きな声でしゃべっているとかいうことに、軽い場合にはある種の不快感を覚える、重い場合には一種のアレルギー反応を示す人もいるように思う。

天明の大飢饉の頃、藩によっては農民の過半が餓死したという悲惨な事態となったが、日本から脱出した難民がいたという記録を知らない。鎖国も何もなかった室町時代にも、深刻な飢饉は頻発していたが、日本を逃れた民が世界を流浪したという話を聞かない。なぜだろう。ここから小舟で黒潮に乗っても、普通の場合太平洋の藻屑と消えてしまうことがわかっていたからかもしれない。黒潮や偏西風に乗ってアジアからこっちに流れ着く民はいるのだが、ここから先はどこにも行けない。皆で「和」の精神を持って、狭い土地の上で共生していくしかなかった。

混乱の戦国時代、秩序はあれど統治機構も方言もばらばらな江戸時代、侵略される恐怖がやがて侵略する言い訳へと転じていった戦前、産業発展に一丸邁進した戦後を経て、ようやく他国との武力衝突なく平和な暮らしに安住できるようになったこの日本。製造業という収入源を得、日本語という特殊な言語の体系を確立し、西洋と東洋がフュージョンした日本文化を形成してきた。国民の大半が阿吽の呼吸で空気の読めることを価値とし、いろいろあってもまあ国内外仲良くやっている。外国とあまりかかわりたくないという気分の背景には、そうした歴史や文化の積み重ねもあるのだろう。

しかしその日本は、現実には世界中で不動産や企業、天然資源を買い漁って来ている。最近の急激な円高も、何だか外国の誰かのせいでこうなったというように報道されがちだが、実際には日本の今年上半期の経常収支黒字が過去最高水準だったということに象徴されるように、日本の国際競争力が足元でも相対的にたいへん強いという事実を最大の原因としている。リーマンショックだって、日本の過剰な貯蓄が米国に流れ込んだ中で起きている訳で、世界経済の中の日本は決して「大人しい羊ちゃん」であるわけではない。このように、自覚(内向的)と実際にやっていること(実はかなり外向的)のずれの大きさこそが、日本の「国際化」の現実であるとも言える。

対してシンガポールの場合、外国や外国人とは、日常的に当たり前にそこにあって接触が避けられないもの、言わば日常生活の不可欠の構成要素だ。幅1キロの海峡を渡ればマレーシア本土、フェリーに40分乗ればインドネシア(の離島)。東南アジアで自分だけ先に極端に豊かになった国、しかも中国人系が中心になって建国した国として、決して周辺国に好かれているわけではない。しかし何か事を起こして水や食料や石油・ガスの供給動線を立たれれば、たちまち窮地に陥るわけで、周辺とは変に妥協も敵対もできず、他方で南シナ海域に食指を伸ばす中国に対しては団結して対抗せねばならない立場にある。豪州や日本とはリスクヘッジのためにも仲良くしておかねばならないし、中印の対立やムスリムとヒンドゥとクリスチャンの対立が国内に持ち込まれないように、細心の注意を払わねばならない。

そんなシンガポールの市内には中国系、インド系、マレー系のみならず、欧米人や豪州人、日本人、韓国人、アフリカ系も溢れ、街路も店もレストランも世界中の人種で埋まっている感じだ。このような状況の中で逆に問われるのは、シンガポールとは何か、シンガポール人とは何か、という切り分けの方だろう。

同じように天然資源を欠き、貿易で糧を得る島国でありながら、なぜここまで対照的な状況なのか。不可避的に国際化した国家・シンガポールの生き抜き方を紹介しながら、日本のあり方にも思いを巡らせて見たい。

発電所を外国企業に売却

まったく架空のたとえ話だが、沖縄電力が中国企業に買収されたというようなことが起きた場合、皆さんはどのように感じるだろうか? そんなことは国の安全保障上許されない、と感じる方も多いだろう。「沖縄を中国に売るつもりか、そんなことになればいつ電気を止められるかわかったものではない」といった感情論が巻き起こることも予想される。

だが一昨年度から昨年度にかけて、シンガポールはそれを実行した。国内に3つある火力発電所が、これまでの所有者であるシンガポール政府企業から、それぞれ中国、マレーシア、日本の企業グループに売却されたのだ。入札にはシンガポール国内の企業も参加したが、プロセスは原則通りに実行され、売却側に最も有利な条件を提示した外国企業の落札となった。

中国企業と聞くと警戒する日本人もいるだろう。だがシンガポールでは、過去実際に当地を占領して乱暴を働いた実績のある国といえば日本だ。市内中心部の広大な芝生の上に立っている国内最大の記念碑は、日本の占領中にスパイの疑いを受けて殺された数万人とも言われる中華系民間人の慰霊塔、というお国柄である。国民はもちろん当地在住の日本人も皆そのことは知っていて、過去の反省に立ちつつ現在は実に友好的な関係を築いているのだが、それにしても当地の基幹インフラを日本企業が買収することに、心理的抵抗を感じる人はいないのだろうか。あるいは、独立以来それなりにぎくしゃくした関係にあるマレーシアの企業に発電所を握られるのは、心配ではないのか。南方への領土や影響力の拡張の野心を隠そうとしない中国企業を警戒する向きはないのか。

「ない」と言い切っていいだろう。政府がそう思っているだけでなく、一般住民も誰一人そんなことは気にしていない。

シンガポールには国防意識がないのか? とんでもない。ここは厳格な徴兵制のある国だ。2年間の兵役の間は国内のキャンプやブルネイの密林でみっちり訓練されるし、その後も中年になるまで、予備役として数ヶ月召集され何かの作業に従事するということが何回も起きる。軍事予算も多く、何かの記念日には上空を戦闘機がうるさく飛び回る。この小さな国土で、実際に侵略というようなことがあったとしても戦闘機を使うような戦闘があるのかよくわからないのだが、とにかく国内では軍の存在感は大きい。シンガポールに言わせれば、「徴兵制もない国の国民が、外国企業が発電所を買っただけで国の安全への脅威と騒ぐというのは、どこかずれていませんか」ということになるだろう。

現実を直視すればその通りで、所有権が外国企業にあるといっても場所は国内にある発電所を、侵略なり妨害なりの意図をもって止めたりすれば、警察か軍が接収するだけのことだ。そもそも外国人所有者が幾ら命令したところで、現場にいる従業員が国内法をタテに従わなければ、実際に運転を止めることはできない。ちょっと考えればわかることだが、日ごろ外国との接触が少ない日本人であればこそ、アレルギー的な感情が先に立って、そこまで冷静に考えが及ばないのかもしれない。

ちなみにシンガポール政府が発電所を売った意図は、国の規模に比して発電能力が過剰であるため、事業そのものの採算性が厳しくなっていることにある。そこで日本、中国、マレーシアに厳しい競争を繰り広げさせ、彼らの努力で安価・安定供給を達成させることにしたわけだ。きついことは外国にやらせる、という冷徹な戦略ともいえるだろう。そのように厳しい事業に応札する日本側にももちろん、国内電力需要の飽和という事情がある。海外市場開拓の訓練を積むのに、官憲の腐敗がなく、企業の国籍を問わずに扱いがイコールフッティングな当地は、最適の場所というわけだ。

そもそも買った側からすれば、発電をサボったりすれば競争に負けて投資が回収できなくなるだけのこと、自分の株主への背任になるだけで、誰もそんなことはしない。先般の尖閣問題の際に、中国人の日本への観光旅行を中国政府が一時差し止めさせるということがあったが、政府の威令に服さざるを得ない北京周辺の旅行会社と違って、上海以南の旅行社には取りやめの指示に従わなかったところも多かったということだ。外国企業だろうと何であろうと彼らは営利企業であって、外国政府のエージェントではないのだ。

シンガポール政府はいずれ、当国の生命線とも言えるインフラであるチャンギ国際空港の運営会社を、同じように売却するという噂がある。理屈は同じことで、空港自体は厳然として国内にあるものを、仮に外資系企業が運営会社を買ったからといって何か悪いことをできるわけではない。運営に齟齬を来たすようなことがあれば、契約解除なり接収なりをすればいいだけのことだ。空港ターミナルビルに関して外資系企業参入規制を設けた日本とは、これまた好対照の冷静な計算が、当地では徹底されている。

外国人労働者ではなく外国人起業家を歓迎

日本では、国内最大勢力である団塊世代の65歳越えが目前に迫っている。「労働力不足に対応して外国人移民に門戸を開放せよ」という議論が湧き出ては、なんとなく消えている状況だ。筆者は、「日本経済の最大の問題は労働力不足ではなく消費者不足である。従って国内で余り消費をしない外国人労働者の本格導入には国内経済浮揚の効果はさほど期待できず、かつ受け入れ側地域の基礎自治体にかかる住民サービスコスト負担は大きい」と考えており、従って外国人「労働者」の受け入れ拡大には消極的だが、そういう観点ではなく一種の外国人アレルギーから、感情的に反対をする層も国内には多いように感じられる。

シンガポールは逆だ。なにぶん、国内居住者500万人の3分の1は外国人。どの建設現場にも、工場にも、男性の外国人労働者が溢れている。最大勢力はバングラデシュ人とフィリピン人だという。日曜日になると繁華街の一角を休みを取った女性の外国人メイドさんたちが埋め尽くすが、彼女たちはフィリピン人、インドネシア人、中国人が多い。ちなみに日本人はプライバシー確保の意識が強いのか余りメイドを雇わないが、シンガポール人をはじめとした当地の中流以上の層は何の抵抗もなくメイドさんのいる日常生活を送っている。

だが彼ら外国人単純労働者のステータスは、「移民」ではない。彼らが持っているビザには就労先の企業名が明記されており、そこをやめることは即ち母国への送還を意味する。国土が小さいこともあるが、そこらあたりの管理は実に厳格で、勤務先の寮を密かに抜け出して他企業に不法に就労するということはありえない。雇用する側も厳罰に処されるからだ。

誤解されやすいが、シンガポールは、外国人「単純労働者」の「移民」は一切受け付けていない国なのだ。しかも政府は、「生産性向上」を旗印に、彼ら単純労働者の総数自体を減らす政策に舵を切りつつある。「人件費の低い外国人単純労働者を使わなければ延命できないような企業は、出て行ってもらってもかまわない」というこれまた冷徹な判断が、その背景にある。

正反対にシンガポールが定住を歓迎する外国人層もある。単純労働者ではなく知的労働者、それに富裕層だ。もちろんバングラデシュ人だろうとフィリピン人だろうと、国籍は問わない。

外国人知的労働者の中で最も普通に見られるのは、企業で単純労働ではない事務や管理業務に従事する外国人社員、つまり昨年度の筆者のような層(とその家族)だ。まずは普通の観光客として(日本人の場合にはビザなしで)入国し、雇われて働き始めると、企業の方で就労ビザ取得の手続きをやってくれ、緑色のカードが送られてくる。プロセスはすべてインターネットで、どこかに出頭する必要はない。このカード1枚あれば再入国の際には「居住者」ということで国民と同じゲートを通ることができ、電子化されているので通過はとても迅速だ。勤務の期間が終わって国を出るときにも、出国審査のところでカードを返すだけ。正に、「外国人扱い」をされるということがない。

さらには単純労働者と違い、シンガポール国内での転職も歓迎されている。入国後数か月して筆者のところに政府から送られてきた書類には、「あなたに新たなビザ取得の機会を差し上げます。これに応募すれば、何かの理由で今の勤務先をやめても、次を見つけるまで最大半年居住可能になりますよ」とあった。1年間だけでも海外赴任を経験させてもらえた筆者は、さすがにずうずうしくこれに応募することはできなかったが、転職が当たり前の金融関係者などにはありがたい制度だろう。聞くところによると、もっと会社が大きい場合、半年ほどで「永住権を取りませんか」という勧誘の手紙が来たりするらしい。永住権があれば転職のたびにビザを切り替える必要もない。会社の規模で取り扱いが違うというのはシンガポールらしいが、いずれにせよ外国人の個人情報はしっかり把握されているということだ。

シンガポールがさらに歓迎するのは、医者や国際的な資格を持った弁護士、会計士など、いわゆる「プロフェッショナル」層だ。当地では東南アジアや中国、インドなどから富裕層を引き寄せる「医療観光」(通院や入院加療を目的に国内に滞在させる仕組み)が盛んだが、これが可能なのも、シンガポール人医師が多国語に堪能なことに加えて、外国人医師が多数国内に居住しているためでもある。誰だって医療行為は母国語で受けたいものではないか。

以上2つに加えてさらにユニークなのが、「起業家向けビザ」の存在だ。シンガポール国内で起業を目指す外国人(とその家族)が取得できるもので、一定期間以内に実際に起業し、当地の企業会計原則に従った監査を受け納税を始めれば、期間は延長される。納税が基準であるというのがいかにもこの国らしい。筆者が当地で知り合った面白い日本人や外国人にはこの起業家ステータスで住んでいる人が多く、日本人に関してもこの1~2年間で明らかに取得者が増えているという。企業勤務の後に独立してこちらに切り替えた人もいるし、ビザ不要期間のうちに会社を立ち上げた人もいる。

当地で親しくなったあるアフリカ系フランス人の若者は、起業家ビザで住んでいる一介のベンチャー金融投資家だが、当地での投資実績を買われて政府の産業関係の委員にもなっていた。たとえは悪いが、ホリエモンのようなしかも外国籍の若手が、経済財政諮問会議のメンバーになっているようなものだ。もちろん彼はパブリックマインドも高い人物だからこそノミネートされたのだが。「白い鶏でも黒い鶏でも卵を産むのは良い鶏」と言ったのは客家の血筋である鄧小平だが、同じく客家の出身であるリー・クアン・ユーも、まったく同じ考え方を国の各所に植えつけてきたように思える。

外国人労働者というと単純労働者のみに考えが行きがちな日本でこそ、この起業家ビザのような制度の活用・普及を考えるべきではないだろうか。これに限らないが、妙な空気というか先入観によって議論の幅が狭まり(たとえば外国人受け入れ=単純労働者の移民の増加というような自動的な絞込み)、実質的なところに話がなかなか行かないのが、日本の大きな問題であると感じる。

預金を積めば永住権

さらに印象的なのは「富裕層向けビザ」の存在だ。当地で筆者が会ったある日本人は、国内で人生を賭けた大博打(もちろん合法的な投機だが)に勝ち、そこできっぱり足を洗い富裕層向けビザを取得して当地に移住、中国人の若い奥さんをもらって50代後半にして子供も授かり、豪邸に住んで運転手付きの悠々自適の生活を送っていた。ちなみにこの人物は、資金運用を任せていた外資系銀行(いわゆるプライベートバンク)からシンガポールへの移住を勧誘され、諸手続きも一切代行してもらったという。政府が裏でプライベートバンクに手を回しているのかもしれない。治安の良さ、環境や住居の良さ、税金の安さ(たとえば相続税はない)、生活の容易さ(日本食だろうがワインだろうが簡単に手に入る)などが魅力だったとのことだ。

入国当初は、何でこんなに多くの豪邸が森の中に建ち並んでいるのか(観光客は気づきにくいところに分散しているので、日本人には余り知られていないが)、誰が住んでいるのか、不思議だったが、その秘密はこれで解けた。彼に象徴されるような富裕層が、世界中から集まって住んでいるのがシンガポールなのである。

外国人富裕層の居住促進は、人口減少に伴う消費者不足という、日本の最大の課題に対して非常に有効な解決策である。外国人単純労働者が百万人いても彼らの主目的は仕送りであって、国内での消費は期待できないが、外国人富裕層はたいへんな金額を国内で使ってくれ、消費税も多額に納税してくれる。ということで豪州やニュージーランドなども類似の制度を持っているが、シンガポールの制度は特に基準が緩やかで、外貨でも何でも一定金額以上をシンガポール国内の口座に預金すれば(シンガポールでは外貨預金も外貨決済も非常に容易だ)、永住権が取得できてしまう。ただし固定資産税や所得税など消費税以外にも納めるべき税金は、税率は低いがかっちり取られる。

この一定金額以上というのが曲者で、かつては1億円少々でOKだったらしいが、最近中国人富裕層の申請が激増し、それが旧来からの住民(特に中国系以外)の不興を買ったため、最近は4億円程度に上昇しているらしい。このあたりの設定がフレキシブルだというのも、いかにも経済最優先の発想だ。

またシンガポールの永住権というのも額面通りではなく、一定期間ごとに更新しなければならない。仕事がなくても住めるということで永住権と呼んでいるが、更新時期に預金額が足りなかったり、また何らかの理由で政府に不都合な人間とみなされれば、更新を拒否される可能性はあるということだ(まだ実例は聞いたことがない)。もちろんそういう面倒を避けたければ国籍取得を申請することもできる(そうなると徴兵への応召義務が発生するが)。

日本では、中国人などによる山林などの買占めが問題となっている。だが外国人が所有者だからといって、別に土地を持って逃げられるわけでもなければ、水利権や諸規制を無視して勝手にそこで採取した水などを輸出するわけにもいかない。問題は、多くの事例において誰が所有者なのかがよくわからず、固定資産税をきちんと取れていないことだ。実は地籍が未整備で税金の取りはぐれが多いというのは、日本人が所有者であっても同じなのだが、そのあたりのいい加減さが、外国人所有となると際立ってくるわけだ。

その点シンガポールでは、税率は低くとも税金の取立ては厳格だ。しかも不動産取得は、これは永住権がなくとも自由なのだが、ほとんどの場合には期間99年の定期借地権付き建物の取得である。第二回にも書いたが、土地の多くが政府保有であるためで、99年後には土地利用権は国に戻ってしまうし、その間に契約違反の利用をすれば(たとえば建物の固定資産税を滞納すれば)、契約は解除される可能性もあるということだ。土地を買われたらそれっきり所有者の自由、という日本とはまったく状況が異なる。

とはいえ、シンガポールが不動産所有の点で外国人と国民に何か取り扱いの差を設けているわけではまったくない。要するに国民向けの制度が、既得権による例外なくかっちりと運営されているので、外国人であろうと国民だろうと払うべきものは払わされるということだ。地籍も未整備、納税者背番号制もない日本の状況は、日本人だけでなあなあにコトが済んでいた間は問題にならなかったが、国際化という流れの中で基本的な欠陥を突かれ始めているとも言える。

さらに当地で感じるのは、潜在的には敵方に回る可能性もある周辺諸国の富裕層が、こぞって当地に豪邸を持つことの国防的意味だ。彼ら富裕層にとっては、シンガポールの経済が破壊され良好な都市環境が悪化することは、自分の個人財産の毀損である。であるがゆえに、表向きはともかく裏では、シンガポールが困窮し衰退する方向には絶対に持って行きたくないだろう。いわば相互確証破壊が成り立っているわけだ。そう考えると、中国、インド、日本、欧米の富裕層にもどんどん当地の豪邸を購入させている今のポリシーは、世界中の影響力ある層を味方につけることで自国の国際的な地位を向上させる、これまた捨て身(というか切り身?)の戦略であることが理解される。

シンガポール人をどうするか?

以上、当地の国際化戦略を、幾つかの明るい面を切り取ってご紹介してきた。しかしもちろん、このようなドラスティックなやり方には副作用もある。最大のものが、「シンガポール人」の処遇だ。

そもそもシンガポール人とは何なのか、人種的にも民族的にも宗教的にも余りに多種多様であることは前回の言語の話の中で述べたが、とにかく45年前の建国時にこの島に住んでいて国籍を取得した中華系・インド系・マレー系を中心とした住民とその子孫、それから建国後に永住権ではなく国籍取得に踏み切った外国人とその子孫ということになる。多くはたまたま生まれた場所がここだったということで、現在の周辺国に比べて著しく高い生活水準を享受できているわけだが、定住外国人にはない徴兵などの義務も果たしているという自負はある。

そのシンガポール人だが、しかし、自国内でも常に、仕事を巡って外国人との自由競争にさらされている。ちょっと考えればわかるが、これはとても厳しいことだ。以上説明してきた制度を使って当地で働く外国人は、皆一定レベル以上の優秀さを備えているからだ。

国民の約1割とも言われる大卒エリート層は英語もペラペラで、引く手あまたで給与も高く、逆に外国に打って出ている人も多いわけだが、前回紹介したような多くの庶民、小学校4年の段階で選別されて大学には行かなかった層には、英語もきちんとは学ばなかった人もいる。やる気があればタクシーの運転手や飲食店屋台の経営など、本人次第でかなり稼ぎが伸ばせる仕事に就くが(このあたりは日本とは職種の位置づけが違う)、そこまでの根性もない普通の人は、飲食・小売の従業員や、会社の事務などをしながら、少しでも賃金の高い職場を求めて転職を繰り返しつつ生活している。国民であれば公団住宅は安価で買えるし、何かの仕事は必ずあって衣食住には困らないが(事実ホームレスがいない)、札ビラを積んで永住権を取得した外国人の成金に、アゴで使われる不愉快というようなものを感じる人もいるだろう。

政府は彼らの雇用確保のために策を用いている。金融など一部の専門性の高い業種を除いた、商業やサービス業、運輸業などの企業(外資系はもちろんシンガポール企業も含む)に、外国人を1人雇用するたびにその○倍のシンガポール人を雇うように義務付けているのだ。○倍のところは、失業率などに応じて数ヶ月おきに変わると聞くが、この規制をクリアすることが企業側にとっては頭痛の種だという。社内で一番働かないのがシンガポール人(の庶民)だからだそうだ。同じ東南アジア人でも、ハードルを越えて来た優秀なタイ人やベトナム人、インドネシア人などの方がコストパフォーマンスがはるかに高いし、日本食レストランや日本企業相手のサービスなどではどうしても話の通じやすい日本人を雇いたい。だがこの規制のために、従業員の多数が日本人というような状況は実現できない。

ホテルのフロントや、観光施設の切符売場などに、何をしているのかよくわからないシンガポール人(らしき連中)がぞろぞろいて、横の方で談笑したりしている光景をよく見かける。これは、上記の規制のために企業がやむなく雇った人たちで、仕事も余りなく、やらせても能率が上がらないので、ぶらぶらしているのだという。誤解のないようにしなければならないが、シンガポールの大卒エリートは優秀だし、庶民でも多くの人はやる気と才覚をもって生き抜いている。だが、どの国にも意欲を失った層はいるわけで、この国ではそうした層も正社員として企業に雇ってもらえるチャンスが大きいということだ(ただし給料は非常に安い)。こうした連中に、しかし最低限でも何か労働はするという意欲を何とか与えつつ、きつい単純労働をマジメな外国人労働者に担わせ、世界と闘うエリートは世界から誘致する。自転車に乗ってお手玉をしながら料理もするというような感じの、曲芸のような国家運営を、当地政府は行っているわけである。

以上をお読みになった皆さんは、シンガポールの永住権を取得してみようと思っただろうか。はたまた日本人として日本に住むままの方がいいと感じられただろうか。いずれにせよ、日本もシンガポールも常に過渡期の中にあって、今のままのやり方が将来も続くとは筆者には思えない。日本はもう少し世界に開かれたマインドに向かって、シンガポールの場合には自分たちは何なのかというアイデンティティの発見に向かって、模索を続けていくことになるのだろう。