筆者がシンガポールに赴任していた一年間、北は北海道から南は九州までの全国から、地域振興に取り組んでいる知り合いの方々が視察に来てくださった。3つの団体のご来訪が、1晩ずつ重なりつつ連続したこともある。
おかげさまで当方の案内ノウハウは、最後に近づくに従って随分と向上したのだが、それはともかく振り返ってみれば、お客様の中で数が一番多かったのは関西人だった。逆に誰もいらっしゃらなかったのが、本当は知人も多いはずの東北・中国・四国だったというのは残念至極だが、改めて関西人の行動力には脱帽せざるを得ない。たこ焼きやお好み焼きのような粉モノ好き、話し好き、安売り好き、派手な色彩好きと、関西人と当地人には共通点も多いので、自然と足も向くのだろうか。
しかし残念なのは、その関西の存在感が、シンガポール側から見て薄いことだ。北海道や東京は誰でも知っているが、大阪や京都、神戸の名前はめったに当地人の口にのぼらない。大阪府の当地事務所は、戦前からあった大阪商工会議所の出先を受け継ぎ、当地駐在の自治体事務所の中では最古だというのだが、その伝統はどこに消えてしまったのだろうか?
JETRO主催の対日投資促進フォーラムの壇上でも、東京と大阪の双方に事務所を構える当地企業の社長さんが、「悪いけれども東京と大阪では、都市としての活気や、ビジネスチャンスの有無がぜんぜん違うので、これから進出を考える企業は気をつけて欲しい」と発言していた。実際に両方でビジネスをしているシンガポール人から見てそうだというのだから、仕方ないことかもしれないが、そんなに大阪は活気がないのか? 確かに日航がシンガポール-関空便を廃止してしまい、関西発で残るのは毎日1便のシンガポール航空だけというのも悲しい現実だ。当地のチャンギ国際空港では、世界不況の昨年度も、就航路線がさらに増加していると報じられていたのだが。
しかしまあ考えてみれば、片やシンガポールは、世界中から企業や起業家を惹きつけるアジアの物流・人流・金融のハブ。片や関西は、東京に多くの企業が移転し活力を失いつつある老都会。勢いに違いがあるのは仕方がないかもしれない。…って、そんな単純な話だろうか。
選択肢の乏しい都市国家ゆえに不可避だった人材立国
シンガポールと京阪神の規模を、数字で比べてみよう。
当国の面積は、未利用の埋立地(かなり広大)や周辺諸島(こちらはとても小さな島の集まり)も含め700㎢余り。東京23区の1割増し程度の大きさだ。そこに外国人含め500万人弱が住むが、国境を越えた都市の広がりは乏しい。北の対岸はマレーシア第二の都市・ジョホールバルで、バス・専用タクシー・自家用車・それに一日数往復のマレー鉄道で行き来はできるが、国境での煩雑な手続きもあり、マレーシアから通勤してくると毎日相当の額の料金を徴収されるという現実もあり、少なくともEU内のような、気軽な隣同士という感じはない。
対して関西はどうか。大阪市を中心にシンガポールと同程度の面積の範囲には、一回り多い600万人余りが住んでいる。さらにその外側、府内・京都市周辺・大和盆地・神戸市周辺にかけては、加えて1200万人もの人口集積がある。当然間に国境もなく、何十本もの鉄道と何百本もの道路を経由して、人が大阪都心に流れ込んでくる。自覚されていないかもしれないが、京阪神は人口1800万人、シンガポールの4倍もの大きさの巨大都市地域なのだ。
ちなみに東京ではシンガポールと同程度の面積の中に900万人以上が住み、さらにその外側には、一都三県に限っても2500万人もの人口集積がある。名実ともに世界最大の東京首都圏に比べれば、シンガポールなど可愛いものだ。
名古屋周辺を見ても、シンガポールと同程度の面積の範囲内に住むのは330万人と、密度は2/3に低下するが、名古屋駅から高頻度の電車で30分程度で行ける範囲には700万人以上が居住しており、都市地域全体の規模では勝っている。
福岡においてすら、シンガポールと同程度の面積の範囲内に住むのは200万人に過ぎないが、全県人口は500万人を超えており、経済圏の大きさでは優劣がつけがたい。
日本とシンガポールの一人当たりGDPはほぼ同水準なので、人口規模で上回る京阪神や名古屋、同等の福岡が国際経済の舞台でシンガポールよりも目立たないというのは、本来は妙な話だ。しかし事実目立っていないとすれば、それは地力ではなくやり方の違いの問題だろう。
どういう違いか。「世界中から人材を誘致し、英語を共通語に自由闊達にビジネスをやらせる」というシンガポールのやり方と、「基本的に日本人だけが日本語を使い、日本国内だけで通じる独特のしきたりに遠慮しつつ経済活動している」という日本の大都市のやり方の違いだ。さらに進んで、「基本的に関西人だけが関西弁を使い、関西だけで通じる独特のしきたりに遠慮しつつ経済活動している」のが関西だとすれば、シンガポールと活力に差が出てくるのはなおのことだろう。
規制について端的な例を挙げれば、ある関西からのまちづくり関係者のご一行は、当地の丘陵地の公園に架かる歩行者用木造橋「ヘンダーソンウェーブ」に驚いていた。天空を飛翔する龍に見立てた優れもののデザインの橋だが、これは万事に規制のうるさい日本ではありえない構造らしい。「日本には施工技術もありますしデザイン能力もあるけれど、同じものを架けようとしても、何かと難癖つけられて実際には無理ですね」ということだそうだ。
確かに上を歩いてみると高所恐怖症には向かない構造だが、歩行者が誰かがケガをしているわけでもない。ここに典型的に出ているように、万事に実質重視の当地では、不要な規制は撤廃して企業の創意を認め、他方で国民の衣食住は手厚く保護してある。前者の生む競争と後者の生むユルさのミックスが、都市の活力を生んでいる。
だがそういう現象面を語っているだけでは、なぜシンガポールは規制緩和や人材誘致にそこまで熱心なのか、なぜ日本の諸都市はそこまでは熱心にならないのか、という理由の説明にはならない。何がシンガポールをこうさせているのか、それは国土の基本条件に遡る問題なのである。シンガポールは選んでそうしたのではない。発展するには、他に選択肢がなかったのだ。
そもそもシンガポールの人口500万人弱というのは、日本の4%程度、九州の半分以下で北海道にも及ばない。東南アジア6億2千万人の中では正にほんの一滴だ。アジア経済の押しも押されぬ拠点のひとつであり、一人当たりGDPでは完全に先進国なのに、インドネシアすら入っているG20にも入れない悲しい立場にある。(だが大国日本では、このことに誰も気付いてすらいないだろう)。
もともと当地の経済発展は日本のメーカーの工場進出から始まっており、今でもGDPの3割は製造業由来だ。しかしもはや製造コストが高くなりすぎ、他方で内需も小さいため、さらなる集積は望みにくい。リーマンショックの最も深刻だった昨年度でも各所にビル建設のクレーンが上がっていたが、当地では鉄鋼もセメントもガラスも建設機材も、砂利ですら外国製。ゼネコンも日本か中国の会社が多く、現場で働いているのもフィリピンやバングラデシュから出稼ぎの労働者。彼らは飯場内だけで生活し、収入はほぼ仕送りしてしまう。これでは建設コストのうち地元に落ちるのは微々たるものだ。つまり、建設投資に乗数効果がほとんど見込めない。だからシンガポールでは、公共工事で景気対策というような考えはこれまでもこれからも存在し得ない。これに比べれば、資材・人材を国内産で賄え、公共事業で大なり小なり国内経済循環を増やせる日本の産業構造は、本当に恵まれている。
ところが当地には、その500万人を養うだけの水もない。熱帯なので面積当たりの降水量は東京の2倍近いのだが、人口密度が高すぎる。一人当たりの降水量は中東のクウェートの半分と、世界最低水準なのだ。これを何とかしようと、海岸線の随所には淡水をせき止めるダムが設けられ、国土に降った雨は一滴たりとも逃さないシステムが出来上がっている。海水の淡水化や、下水の完全浄化→再利用も進んでいるが、それでも水の多くをマレーシアからの輸入に頼る状況は変わらない。飲料水が足りないのだから、農業を振興して食糧を自給するのはなおさら無理だ。
利根川から気前良く水を頂ける東京や、琵琶湖という天与のダムに頼れる大阪は、自分たちが奇跡の恵みに支えられていると気付いているか。自分の周りに田園や山岳地帯があり、しかもその間に国境はないという、都市国家シンガポールにとっては望むべくもない条件に、日本の大都市住民は心から感謝せねば。
しかも2008年の合計特殊出生率を比べると日本の1.37に対して当地は1.28。人口高齢化の進展は日本より20年程度遅れているが、それでも自国民の人口減少は近い将来の現実だ。だが外国人流入で補うにしても、面積や水の制約から考えれば、大阪並みの密度の600万人程度が限界だろう。もうそうそう大きくもなれないし、かといってこの大きさでは明らかに経済発展に限界があって取れる選択肢が限定されてしまう、それがシンガポールの直面している絶対的な制約なのである。
事ここに及んで出来ることは何か。人口1人当たりの経済アウトプットを増やすしかない。しかし資源も土地もないのだから、そのためにはアウトプットを増やせるような人材を増やし、極力自由に活動させるしかない。そのためには教育をするか、外国から誘致をするしかない。人材立国という戦略は、消去法の上での必然だったのだ。
「共通語は英語」という「捨て身の開放戦略」の凄みと限界
人材立国の根幹を支えるのが、英語教育だ。誰でも英語を話す、カタコトでも英語さえ話せればビジネスに従事できる国だからこそ、世界中から人材が集まることが容易なのである。対して成田エクスプレスの乗務員ですらカタコトの英語も話そうとしない、表示も何も日本語だけが当たり前の日本の大都市では、日本語を使えない世界人類の圧倒的多数は、ビジネスへの参画に大きな制約を受けざるをえない、
ただしここで気をつけなければならないのだが、移民の集まりであるシンガポールの各家庭内で話されているのは、実は英語ではない。ほとんどの国民は、先祖ゆかりの言葉が第一言語だ。こういう国で英語を共通語としていることには、たいへんなコストが伴っている。実に、「捨て身の国家開放戦略」と言ってもいい凄みを、この政策には感じざるを得ない。
たとえば国民の4分の3を占める華人系は、広東語、福建語(台湾語に近い)、客家語、上海語などを母語としている。しかしこれらは同じ中国語とは言ってもお互いにまったく通じないので、華人系は皆、共通語としてマンダリン(北京語)も操ることができる。しかしこれもインド系、マレー系には通じない。
インド系はインド系で、かつて国語学者大野晋が日本語との共通点を指摘したドラヴィダ語を話す南部出身者が多いとはいえ、ヒンドゥー語を話す北部出身者や、その他ベンガル語だのウルドゥー語だのを話す者もいて、とうてい一つのまとまりとはいえない。
先住民がマレー人であったという事実に敬意を表し、マレー語は「国語」という扱いであり、国歌もマレー語だが、共通語ではないので、これを話すのは国民の1割強に過ぎない。
これでは国民相互のコミュニケーションは困難だ。それゆえ小学校でも授業の7~8割は英語で行われる。地下鉄の車内放送も、テレビ番組もラジオ番組も、国内を代表する新聞も、みな英語だ。その結果、TOEFL(世界共通の英語の能力試験)のスコアはアジア諸国では最高レベル。世界に雄飛できる子に、ということだろうか、母子で移住してきて子供を当地の学校に通わせる韓国人も増えているという。
だがこういう話と、当地在住時に筆者の得た肌感覚には、実は違いがある。シンガポール人には英語の通じない相手が結構多いように感じるのだ。
地元なまりの英語(シングリッシュ)は、まるで中国語のように聞こえることがある。インド系の早口の英語も聞き取りにくい。しかしそれだけなら当方の耳の問題だ。だが、欧米では問題なく通じる筆者の米語が、相手に理解されないケースも結構ある。先日も米国駐在経験の長かった日本人が「当地で初めて、英語が相手に通じないという経験をしました」とおっしゃっていた。やはり現場を踏まずして大本営発表を鵜呑みにすることはできない。
英語の通じない相手は3種類に大別される。まず建国45周年の若い国なので、現在のような教育システムが完成する前に学校を卒業した中高年には、英語教育をきちんと受けていない層も多い。第二に、最近中国から移民なり出稼ぎに来た層には、広東語なり福建語なりと北京語しか話さない人もいる。だが問題は第三の層だろう。学校教育だけではなかなか英語を習得しきれなかった一部の国民である。
英語に限らないのだが、当地の学校教育は、「徹底した能力別教育でエリート育成」というシステムを採っている。なにぶん小学校4年生終了時の試験で、後々大学に行ける2割が選別されるという厳しさだ。その後も敗者復活戦はあるが、いずれにせよ英語の習得に失敗した多くは落ちこぼれとされ、本人も早い段階でやる気を失ったままになる。これが第三の層だ。
もちろん産まれた時から家庭の外では英語が共通語の国であり、車内のアナウンスも、テレビもラジオも全国紙も、メインは英語だ。片言でも英語が理解できなければ、恐ろしく住みにくいことだろう。だから誰も「英語をしゃべれない」とは言わず、果敢に分かったフリをする。でも本当は一部しか通じていなかったりする。「英語は全くわかりません」と言い張りながら、実は結構わかっていたりする日本人とちょうど正反対だ。
その日本には当地のこの「エリート」教育システムを賞賛する声もあるようだ。しかし勝ち残った2割のエリート?の陰で、やる気を失った国民も量産する制度というのは、人格面の問題はもちろんだが経済面で考えても、むしろ国の活力を損なうのではないだろうか。さらには、抜群の英語力を身につけたエリートに限って、当地のステージとしての小ささに見切りをつけて海外に雄飛してしまいがちである、という話も聞く。
一度だけお会いした当地の演劇界のキーパーソンも言っていた。国民全体を相手にするには英語しかないのだが、それを理解できない観客も多いと。そのため広東語だけで通る香港と違って、シンガポールでは地元の芸能市場が拡大せず、結果としてスターも生まれてこない。
とはいっても、多民族・多宗教の混交するこの国に、英語以外を共通語にする選択肢があるわけでもない。だがそのために払っている犠牲の多大さに、筆者は「捨て身」の「凄み」を感じざるをえない訳である。逆に考えれば、水も実りも豊かな日本の、巨大な国内市場に依存できる東京や大阪には、事ここに至っても何の「捨て身」も「凄み」もないなと、改めて慨嘆されることでもある。
日本語という檻の中に囚われて、世界に通じる中身がありながら国内だけの評価にとどまっている人、世界に対し閉じている地域が、日本にはいかに多いことだろうか。難しいことは言わない。シンガポール人並みに果敢に「英語が分かるフリをする」習慣を植え付けるだけでも、結果は変わってくるだろうに。
日本を旅行する外国人から最も多く寄せられる苦情とは、「英語が通じない」ということだという。正確には、知っている片言の単語すら恥ずかしがって話そうとしない、世界と通じ合おうという意思を最初から欠いた内向きの態度が、外国人の失望を招いているのではないだろうか。実力不相応の「英語通じます」の看板を掲げ、世界から旅行者や定住者をひき付け繁栄するシンガポールと、「英語まったく通じません」と実態以上の卑下で引きこもって、ジリ貧になっている日本の多くの地域。その対比に、捨て身になれた者の強さと、捨てられない者の弱さをつくづくと感じる。
エリート教育の行方は?
そのようなシンガポールで仕事をしていると、世界中から集まったビジネスエリートと英語でお手合わせする機会がある。欧州人や豪州人、東南アジア人に中国人、インド人。米国人に韓国人。日本人にも面白い企業人や起業家は多い。だが考えてみると、人口比に比べれば少々遭遇機会が少ないとも感じるのが、シンガポール人だ。日本経済を動かしているのは日本人だが(だから最近動きが鈍りつつあるのかもしれないが)、シンガポール経済を動かしているのは決してシンガポール人だけではない。これも「世界中から人材を誘致する」という「捨て身の開放戦略」の帰結であろう。
だが筆者は、「落ちこぼれの大量生産」という副作用を伴いながら育成されているという当地の「エリート」の質の問題も、シンガポール人が数の割にはやや目立たないことに関係していると思う。確かに当地をここまで発展させてきた中高年指導者層の能力や識見は極めて高い。だが、現在の教育システムで育った若い世代のエリートには、どうも余りインパクトのある人を見かけないのだ。前述のようにアグレッシブな人に限って海外雄飛しているということがあるのかもしれないが、それにしても筆者が知り合った当地の高学歴の若者には一様に、「赤絨毯の上を手を引いて育てられてきた人間」のひ弱さのようなものを感じる。
ちなみにスポーツやアートに関しても、当地政府は積極的にエリートの育成を進めているそうで、特に国技のサッカーに関しては、W杯を目指し才能ある子供の英才教育が行われているそうだが、どうにも成果は出ていない。
これは筆者の持論なのだが、世界に通じるエリートというのは、整った環境の中で育てるものではない。有象無象のうごめく草莽の中から、自ずと這い上がって出てくるものだ。エリートは教育で育てるものだという発想自体が間違っているのではないか。
もちろんこの点では日本も威張れたものではない。スポーツ選手はともかく、お受験エリートの中に世界に通じるインパクトを感じさせる若者が少ないというのは日本も大同小異、いや英会話能力がないという点ではさらに救いがたい状況だろう。中高一貫公立校がブームだが、世界ではどうでもいい漢字や日本地理や鶴亀算の試験の得意な子供を、雑多な世間から切り離して培養することに意味があるのか。日本の近年の地盤沈下の大きな要因はここにあると、筆者は密かに考えている。
たとえば背広も肩書きも剥ぎ取られた異国出身の他人同士30人、同じTシャツを着て無人島に流れ着いたとしよう。3ヶ月たったら誰が皆の人望を集め、誰が鼻つまみになっているか。誰が見掛け倒しで、誰が本当に皆の役に立っているのか。そこに真の能力が表れるというものだ。学歴や肩書きに依存するひ弱な国内専用エリートではなく、そうした場で評価される、静かな雑草のような力を持つ本当のリーダーを、シンガポールは、いやそれ以上に日本は育てて来ているのだろうか。
「皆で仲良く手をつないでのろのろゴールする徒競走なんかやっているから、日本の子供はだめになった」という人がいる。本当だろうか。自分だけさっさと先にゴールして一番を気取るエリートこそ、なおのこと有害無益ではないか。今の日本そして世界が求めているのは、「皆で仲良く手をつないで、しかもその組全体を早くゴールさせることのできる人」だ。その人を中に入れたことで全体が元気になって、皆に成果が出るような人。社会の求めるそんな人は、一人勝ちが基本のお受験の世界では自然には育たない。試験の得意な「お受験エリート」と、仕事の中で人を動かせるリーダーを混同してはいけないのだ。
にもかかわらず、そのあたりをついつい混同してしまうこと。これが中国由来の科挙文化の影響を大なり小なり受けた東アジア共通の病根なのかもしれない。そうした欠点を、世界中からアグレッシブな人材を誘致することで埋めてしまっているシンガポールに、改めて驚くと共に、しかしその戦略の先行きについてはいささかの懸念を禁じえない筆者である。